昭和四十五年六月四日 朝の御理解


御理解第八十八節 「昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めようということである。」


 昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。信心をさせて頂いて一生懸命お参りをする。そこでお参りをするばかりが信心ではない、という事になるでしょう。教えを頂くばかりが信心ではない、という事も云えます。信心は究極は御用だという意味の事を申しますが、信心はいわゆる御用なりというけれど、信心は御用するばかりが信心ではない。「ばかりではない」という、それだけでもね、鏡を持っていく事が顔をきれいにする事だけに、いわばでも意義がある訳ですよ。実は・・・けれどもばかりではないと。そんなら信心でもそうです。お参りするばかりじゃいけんと、けれどもお参りするだけでもね、やはり意義がある訳です。やはり何十年という長い間、お日参りを続けておるというような人は、各教会に何人か位必ずありますよ。あのお婆さんは若い時からずーっと日参りを続けられております。結構教えが身に付きよる風でもなか、それでも確かにおかげだけは受けとりますから。だからお参りばかりでもです、おかげを受けている。それはもう云う事だけは先生のごたる事を云えれるというのは、やはり教えをしっかり頂き込んでいるからです。そんならそれだけではおかげが受けられんかというと、それで結構おかげを受けております。だから親が鏡を持たしてやると、それは顔をきれいにするばかりではないぞ、という内容を込めて、例えば親は鏡を持たしてやるのでしょうけれども、そんなら果たしてその鏡を自分が顔をきれいにする時だけしか使わない人が、どの位多いか分かりませんよね。着物を着る時だけしか、顔をきれいにする時だけしか鏡を見ないという人がどの位あるかしれませんよ。というようにです、信心もやはりそうです。もう何十年の信者でございますと云いながらです、又話しを聞くばっかり、耳だけが肥えて心が肥えない。あの人ばっかりはお参りするばっかり、あっちはもう御用さえ出来りゃなかと、御用だけはしっかりされる。もう御用が信心の全てのように御用が出来る。だからね、確かに一生懸命お参りすりゃおかげは頂くのであり、一生懸命お話を聞きゃあやはり心は肥えんでも耳は肥える。一生懸命お参りしてあればです、やっぱり何とはなしにおかげだけは受けておる。だからそれでもね、おかげは受けておるけれども、せっかくの鏡を持たしてやる親の心というものを、体していないという事になる。そういう信心では・・・
 なる程、顔をきれいにする為にも鏡が使われるなら、辛い苦しいそういう時に鏡を立てて人にいやな顔を見せるような事があってはならんと、自分の心を納めて、にこやかに過ごせれるおかげを頂いて家を納めていく、鏡は大変な役をする事になりますね。それこそ顔をきれいにする事よりも人間の本当の幸福につながる、家の幸福につながる、家の幸せにつながる大きな役を、鏡はする事になります。信心も参るばかりでも、話を聞くばかりでも、御用をするばかりでもおかげを頂きますけれども、信心によっていよいよ心が清められ高められ身に徳を受けて、おかげを頂いて行けるという事にならなければならんという事をです、教えておられるこの八十八節というのはですね、どういう事かと云うと、八十八節というのはね、いやが上にも開けた上にも開ける、いわゆる限りないおかげにつながるという御教えだと思います。私はこの八十八節という八と八が重なった八という字は広がっているでしょう。だからおかげが開けた上にも開けていくというおかげなんです。この御教えは。それをです、鏡を自分が嫁入りをしていく時に只、自分の身をきれいにしたり顔をきれいにしたりする事だけの為に、それが行使されるとするならです、それはもうそこまでなんです。だからそこまでのおかげは受けられる。なる程、御用すりゃ助かる。一生懸命お参りしておれば、しかもそれが何十年という程、続けられて行けば何とはなしに、やっぱおかげだけは受ける。間違いありません。話を聞くだけが能ではない、我が心からも練り出せとおっしゃるが、練り出しも何もせん、只聞くばっかりと云うてもです、おかげは受けるです。けれどもそれはそれまでの話。限りなく開けた上にも開けていくというおかげには、つながっていかないという事です。そこで思わせて頂く事、もうその人のですねぇ、おかげのケースと云うか、もうそこまででね、がたしかない人、信心があります。なかなか、あの人はきれてである。あの人はなかなかやり手だと、と云うてもね、けれどもあの人はもうあそこ止まりだという人がありますでしょうが、それ以上は出世は出来ない。もうそういうひとつの型というものを、ピシャッと持っておる。そこで私共がね、やはり教えを頂いて本気でひとつ馬鹿と阿呆にならして頂こうというように、底抜けたようなひとつ生き方在り方というような生き方在り方を、自分の身に付けていくという信心。あっちは、なかなかどうして大物ばい、というような人がありますよね。限りなくおかげの受けていけれる、いうならタイプ。信心も御用だけのタイプの人、お参りをするだけのタイプの人、只話を聞くばっかりのタイプの人にとどまらずに限りないものに、つながっていく事の為の信心。何と申しますかねぇ、お互い致命的なものを持っております。めぐりなんでしようねぇ。やはり。身のめぐり、家のめぐりです。もうこの人は、ここまでしかおかげが受けられんといったような、これはもう致命的なもの、そこまではおかげを受けられる、それ以上がおかげ受けられない。そこでね、昨日の朝の御理解じゃないですけれども、そういう致命的なもの、おかげの致命的なものを自分の心の中に発見するという事が、昨日「死田」という事で頂きましたねぇ。改まらんでん研かんでん、そこまでは只、参りゃおかげ頂く、御用しよりゃおかげ頂くという事になるんですけれど、もうそれから先はおかげが受けられない。それは自分の心の中にです、いわゆる不毛の地的なしだが密生しておる。しだとは死んだ田という風に、昨日頂きましたねぇ。いくら種をまいても、そこには生えんという事です。それがいわゆる致命的なもの。その致命的なものに取り組む、その致命的なものを分からせてもろうて、それを取り除くという事ですから、しかしやっぱり至難な事ではある。けれどもその気になって、それこそ一心しと定めいとおっしゃるから、その事に本気で一心に定めて参りますと、そこには自ずと道がついて来る。そこには自ずと改まらせて頂く道がある。それを教えて頂く。
 「心に辛い悲しいと思う時、鏡を立てる」とそういう例えばです、事に直面した時です、心に辛いとか悲しいと思うような時、又いよいよそこに難儀を感じる時、ここはどうでもおかげを受けなければならんと思う時、ここはどうでも助けて頂かなければと思う時、昨日の朝の御理解の中にもありますように「よしあしの中を流るる清水かな」と、そこをいうならば信心で通っていけれる。善し悪しをいわずに、そこを日頃頂いておる信心でそこを流れていけれる、いうなら豊かな心と云うか辛い悲しいという時でも、そこのところをです、御神意を分かり御神意を悟らしてもろうて、勿体ない事だ有り難い事だと云うて、そこを通って行けれる信心を身に付けていかなければならない。口やら言葉では、たったそれだけの事ですけれども、なかなかそこが通って行かれない。それが話を聞くばかりでとおっしゃる。聞いておるから理屈は分かっておるけれども、実際心が五体がいう事を聞かん事になる訳です。
 昨日、北野の秋山さんがお届けをされるのです。もう本当に分かり切る位に分かっておることばかりなんだ。実を云うたら、それはそうでしょうねぇ。もう二十年間も参って来ておるのですから・・・・。ところがさあ実際の問題に直面するとです、どっこい善し悪しを云うておるのであり、なかなかそこにスムーズに流れない、通って行けない。そこで先生、昨日私は、かくい祈っておりますと云うのです。「どうぞ神様、分かっておる事を分からして下さい」分かり切ってるところ、随分と体験も積んできておりますから、そこがスキッとさえできりゃおかげになる事がハッキリ分かっておる。だから分かっておる事を分からして下さいと。この問題なら問題を通してです、善悪を通してです、そこをスムーズに流れないところに、まだそこに何かが邪魔しておるという訳なのです。分からして頂いておるところを分からして下さいという事は、体認させて下さいという事。私は日々そういう願いが、やはりお互い必要だと思いますよね。いわゆる分かっちゃおるけれども、やめられないじゃいかんという事です。分かっておるところを分かっておるように表させてもらわにゃ、それによって体認が出来る。自分の心五体によって、それをはっきりそうだと分からして頂けるそういう繰り返しが出来ますところからです、いわゆる善悪を云わずにどのような場合もです、スムーズに清らかな清水のような心で、そこを流れ通っていく事が出来る、世渡りが出来るというのである。
 私は、御教えを頂きます。例えば昨日は私一日、自分のこれが私の心の中の「しだ」だと思うところを見極めさせて頂きながら、終日終わらせて頂いた感じでした。私共のいわば、これは改まらなければと私が申しますように、いわゆる致命的なもの、ここまではおかげが受けられるけれども、これから先はこれがあったんではおかげ受けられないというところ。まあもうちっと分かり易くいうとこの信心でね、百万円位の資産家にはなれると、この信心で。けれどもそれ以上は駄目といったように、だからもう百万円の財産家になりゃそれでよかというように決め込んでいる人もたくさんあります。もうそれから先、ごっとり信心を進めようとしない。進めようと思うてはおる。けれども何かそこに障害がある。その障害をいわば乗り越えきらない。一千万円だけの財産家になれれる受けものを持っておるけれども、それはもうそこまで。今日、私が皆さんに分かって頂きたいのは、八十八、開けた上にも開けていく。限りないおかげが無尽蔵のおかげがです、頂き続けられる信心をさせて頂く為には、鏡を只、持って行って身をきれいにする、顔をきれいにするだけではなくて、せっかく信心をさせて頂いて信心を持っておるのであるから、その信心がここまででというのではなくて、只お参りするばかりじゃない、話を聞くばかりじゃない、只御用するばかりじゃない。そこから先の信心をです、顔をきれいにするばかりではない、いわゆる心をきれいにする事の為の鏡であるというようにです、信心がいよいよ改まっていく、清まっていく、いわゆる清めた上にも清めていく事の為に信心があるとするとです、これはもう限りない、開けた上にも開けていく道が、そこから頂けてくる。人間的にはです、例えばいろんな欠陥を持っておりましても、その欠陥に気付かせてもろうておかげを頂いていく。それにはね、どうしても致命的なものをです、本気で取り除かせて頂くという、自分の心から死田を追放するという穂無きでの信心が要るのです。
 昨日まで、上野先生が一週間断食のおかげを頂いた。私は本当におかげを頂かなければならない修行をしておる人の事は、私は決して皆さんに伝えません。例えば、上野さんがしておる修行が本当のおかげにつながるのなら、私は云いません。それは上野さんだけのもの。神様と私と上野さんのものですから、あの人がどげな修行しよるなんてん云いやしません。
 初め三日の断食を思い立った。思うところがあって一週間という事になった。夕べがその断食の、いわば明けの日になった。いわゆる修行明けである。そしたら夕べ御祈念前に出て来てから、今度の十日の教師拝命の為に御本部参拝を致します。記念式がありますからね。それまで又延長させて頂くと、こう云う。断食をしさえすればおかげを頂くという事が本当ならばです、私はそれは十日は十五日だって、百日でもする人がある位ですから、最近は・・・。と云うて、それは私はお取次はさせてもらおうけれどもね。「そげな事は、上野さんもう止めなさい」と私が、それじゃのうても三日から又一週間と云うて追う願いするようにして修行させて頂いたんですから。たとえ三日でもね、断食をしようと云うからには、大抵な奮発心がいります。神様へ向ける心も又、切でなからにゃ出来る事ではありません。だからその事は尊い。断食してからでも心を神様に向けるという事は大変有り難いです。けれども断食そのものは、神様は喜びなさらんて。お道で云う信心修行はそうですよ。それは水行しておる人もあります。様々な時に断ちものをしてから拝んでいる人もあります。けれどもね、そういう事は本当は神様は大嫌いなんです。けれどもそれは人間私共自身が、そげんなっとんせんにゃ自分に思い知らせる事は出来ない。といったような場合があります。自分をそういう肉体的にでも、さい悩んでですねぇ、自分を見極めてみようとする手だてにはなります。同時に又、それはもう真剣な「金光様!」と唱えなければおられませんものね。寒中に水ごもりでもしとるという事は、それこそ金光様と唱えなけりゃ頂かれません。だから「金光様ー!」を真剣に唱えるその事は、私共様々な修行もさせて頂きました。もう表行は神様がお嫌いると分かっておるけれども、せにゃおられませんでしたけれども、まあ上野先生どんがそこのところを通っておる訳でしょうけれども「それよりかね、上野さん、あんたはそれがあんたのガンよ、我よ」と私が申しました。その我をとっていく事にです、もちっと極めなければいけない。いわば昨日の朝の御理解は何と頂いたか。よしあしの中をそれこそスムーズに流れていけれる私。そけひっかかりこけひっかかり。もう普通から考えたらそげなところに、ひっかかるはずはなかとこにひっかかっておる。おかしい。ですからそういうところにです、いわゆる表行、形の行よりも心の行の上にもう少し重きを置いて修行したらどうかというような事を申させて頂いた。もう家内が昨日、上野先生が今日は明けだからと云うて、お粥をたいて待っておりましたからおかげ頂いて来なさいと云うて頂かせました。だからその事よりもです、心の上に修行させてもらう。それは開けた上にも開けていくおかげを頂いてもらわなければならんからである。上野先生が一人助かるのじゃあない。これからまぁ近い将来に布教にも出るだろう。さぁ布教という事は、本当に傘一本で出る事でございますから、ひょっとすると一週間が十日でも断食しようと思わんでも、神様が断食させなさる場合もありましょう。そういう時の為に鍛えておくというのなら、又有り難い。人が助かるという事は並大抵の事ではない。けれども肝心要に神様から求められる心を、認めてもらわにゃ出来んから・・・人が助かるという事の為に、いわゆる限りなく人が助かっていく為には、限りなく自分が助かっていけれる、私の基礎土台というものを作らにゃならんという訳です。 それは昔から非常に表行にたけたと云うか、表行だけなら人のびっくりするごたる表行をされて人がどんどん助かったという教会もいくらもあります。特に四国あたりでは、あちらは非常に行者が集まる所ですから、信言密教、お大師様の信心をする人達は非常に荒行をする所です。そういう四国という所は、土地柄がそうですから、やはり金光様の先生もそれこそ信言宗の人達に負けん位に、やっぱ修行する訳です。そしてやっぱりあらたかな御比礼を打ち立てられたという教会がいくらでもあります。けれどもね、修行ばかりではそこまでなんです。なる程、医者が見離した病人が助かった。どうにも出来ない問題が解決した。そこまでなんです。それでは徳にはならない。金光様の御信心はどこまでもね。だからそれを、私はここで表行をさせて頂きたいという人なんか、そのひとつの意気を買います。私は・・・。だからそれはお取次させて頂きますけれども、表行したからこげなおかげ頂いたというような事になったら金光様の信心にもとる。改まらして頂いたらこういうおかげを頂いた、というのでなからにゃ。この方は祈念祈祷で助かるのではない話を聞いて助かると。話を聞いて心が開けるから助かる。信心は何というても、本心の玉を研くのが信心であり、神様の御神徳を頂くのであるというおかげでなからなければ、金光様の御信心ぶりにならんのだ。そのような事を、私は八十八節から今日感じました。そしてね、この人はもう改まらんでんここまではね、こがしこ熱心に御用が出来よるから、これだけ一生懸命参って来よるからおかげを頂くという自信を持っておるであろう。私もそれを感じます。けれどもそれ以上のところをです、突破してもらう為に無尽蔵のおかげにつながって頂く為にです、いわゆる八十八節、開けた上にも開けていくおかげを頂いて頂く為にです、ばかりではいけんという事を今日は聞いて頂きました。いわゆるばかりだけではいけん。・・・そして本気で昨日の朝の御理解ではないですが、いわゆる自分の心の致命的なもの、これがあっちゃおかげが受けられん。話を聞けば聞く程に、自分でも気付いておる事があろうが、心の中に・・それにね、本気で取り組ませて頂いてです、そこのところの限りないおかげの世界に交うひとつのそういう限りないおかげの交流出来れる道をですね、開かせて頂かにゃならん。それが鏡が顔をきれいにしたり身をきれいにしたりするばかりに使うたんでは出来ん。その鏡がやはり心もいよいよ美しゅうする事の為にです、鏡を立てるという信心にならねばならんという事を申しましたですね。どうぞ。